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気ままな感想・考察ノート。基本的にネタバレです。
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葦名における「忍び」の定義、そして炎上する鉄器の謎解きについて。

 


 

忍び衆と鉄器

 

終盤の忍び義手には、数々の恩寵が宿る。

 

竜や人の魂が物品である忍び義手にリアルに移っているという仮定は、これまでの考察、魂が移動し所有されるルールの上に立つならば、全く想像もつかないものではない。

 

そして「忍び」たちが己の命を軽視し死を厭わず、自他の命を物品のように扱うのは

忍者の精神修行の成果ではなく、それら呪具の精神が身体に「忍び込み」操っているからではないか、という疑いが本稿の起点となる。

 

久しいな 御子の忍び

忍びの掟は忘れまいな

落ち谷の飛び猿と呼ばれた忍びが、かつて愛用した忍具

 

葦名では「忍者」という単語は一切頑なに使用されない。

また隻狼の服装や戦闘スタイルは、普通に考えるならば忍者のそれではない。

 

実は「忍び」という語を特殊な意味で用いているのでは、と疑うに足る環境であるといえる。

 

文字通り、心の宿る刃こそが、葦名の忍びなのではないか。

自分の魂、人格を物品に移しこむならば、これまで予想していなかった、断つべき「不死」の一形態である。

では忍び義手に人格があり、隻狼はそれに操られているのか。

 

だが隻狼が手放さないのは、忍び義手だけではない。

楔丸もまた、文字通り死んでも彼が手放すことのない相棒である。

 

仮に忍び義手の人格が隻狼を操るのなら、それは仏師と同様の人格となるだろう。

だが彼と仏師は人格面では似てはいない。

そして忍び義手の主は、九郎ではない

 

 

隻狼と楔丸の所有者は、共に九郎である。

 

彼の心に忍び込み操っているのは、実は楔丸の方の人格ではないだろうか。

 

心まで無くしたか

 

オープニングで拾われ裂傷に反応しない幼少期の隻狼は、とある刀を拾い上げた瞬間から、刃を恐れる本能を侵食され失った、という見方もできる。

 

あの夜のこと、覚えておらぬのか

 

隻狼が平田で死して楔丸を失い、目覚めたのちは過去の記憶がないというのは

隻狼本体の人格は御子と会ったことがない、あるいは刀と本体が長く離れたことで

刀側あるいは両者の記憶が一時リセットされた等の理由によるものかもしれない。

 

葦名の庶家である、平田氏に伝わるもの

失っていたが、再び狼の手に戻った

 

頑健な肉体を楔丸が操り、語り、時に肉体を蘇らせつつ主の九郎に従い不死を倒す。

楔丸こそが「御子の忍び」と呼ばれた無慈悲な心持つ刃であったのではないか。

そもそも死んだあと、蘇るかどうかの選択は実際に死んだ方の人格には不可能である。

 

しかし忍びは隻狼だけではない。

忍び衆は葦名に無数に存在する。以下に「鉄器」との関連を整理してみる。

 

 

百足衆:人格なく身につけた鉄器に操られているのでは、という仮定は逆にすんなりと納得がいく。

 

寄鷹衆:人格は薄くとも存在するが、極端な命知らず集団であり、武器としては漏れなく鉄器を持っており条件は満たす。

 

はぐれ忍び:忍具としては仏師は忍び義手、飛び猿は忍び斧、「せがれ」は楔丸である。

(川蝉は不明。泣き虫 or 鉤縄?)

 

らっぱ衆:鉄器を持ってはいないがこれは例外で、異なる「魂の依代」に操られていると考える。

上人より授けられた「飴」である。

 

弧影衆:葦名忍びではないため微妙な所。多量の兄弟は量産品?

賢すぎる犬は、忍びの影響下にある可能性はあるかもしれない。

 

 

他には大忍び梟についても、確かに大振りな大刀、加えて極端な人格変貌が精神支配の影響を思わせる。

 

影落とし、お返しいたす

 

もうひとつの魂が「影」と呼ばれるのでは、という以前の考察も否定には至らなかった。

なお忍びが影の心持つ刃ならば、「親」という単語の意味は改めて考察する必要があるようである。

 

忍び狩りが宗教者の姿なのも、一種のゴーストハンターである前提ならば納得がゆく。

 

 

次の大きな疑問点は、そのような魂の宿る鉄器の数々は、誰が、いつ、なぜ、どのように作り上げたのか。

ここまでで予想してきた葦名の歴史が、あくまで仮定だがそのすべてを示しているように思われる。

 

 

 

葦名のたたら場

 

磁鉄で鍛えると硬い鋼となる

葦名にとって磁鉄は、貴重な銭の種だ

 

葦名の地で産鉄、製鉄が行われてるのは、ほぼ確実な予測と言えるだろう。

そして隻狼の時代背景としては、製鉄は「たたら場」と呼ばれる人工施設で行われる可能性が高い。

 

しかし葦名の隻狼が訪れる範囲には、明らかに稼働中と見えるたたら場は見当たらない。

では前時代的だが、自然の地形を活かした「野だたら」がどこかに存在するのか。

 

野だたらの構造条件は「中空構造の坩堝」に「酸素を送り込む下部吸気口」「熱気を排出する上部排気口」、そして「鉄を流し出せる平坦な底部」が必要となるが、

この条件に合致する自然地形が、葦名に一箇所存在する。

 

「葦名の底」、獅子猿のねぐらと呼ばれる場所である。

 

だがそこは現在は使われてはいない。仮に大昔の野だたら場であったとしても、既に廃棄物の毒に満ちた遺跡である。

 

現在は蛇の目が居座る葦名の底に、かつて住み、炉を用いた者たちとは何者だったのか。

 

白木黒木の翁についての以前の考察に従うならば、葦名の古代住人は源の宮から白桜の一族により落ち谷に追われた二種類の民族、渡来人一族黒松の一族のいずれかであり、

落ち谷上流の高い技術の石像信仰が渡来人一族によるならば、もう一方の黒松の一族が下流の住みにくい土地に追いやられたと見るのが自然であるように思える。

 

我らは異端、そして弱い民じゃった

当然に蹂躙され、服従を強いられた

ずっと、長い年月な…

 

特別な水場を奪われたその素性は、一心の回想と繋がる。

差別された彼らの末裔こそが「葦名衆」であったということになる。

 

ゆえに黒松は失われ、

その守り人もまた、嫌われ者である

 

ここまでの考察ではこの葦名衆は黒松の力、炎の呪術に長けていたと予想している。

彼らは本来であれば変若水を用いた死魂の転生で不死の存在であったが、

 

源の水を、祀ることさえ許されん

 

差別の末、その環境を奪われることとなった彼らは死と滅亡の未来を得た。その怨み、怨嗟は炎に託さざるを得なかったことだろう。

 

鉄屑は、砂鉄とは呼べぬほどに粒が大きい

 

葦名はおそらく質がよく加工しやすい餅鉄の産地であり、鉄の原料採取には川下にあることは有利となった。

そして川を用いて大岩を砕く鉄採取の方式は「鉄穴(かんな)流し」という。

 

それは形代流しと名称が非常に似ている。単なる偶然であるのだろうか。

 

刻まれた銘は、「奉魂」

それがこの短刀の真の名

 

偶然でないとすれば、彼らは砂鉄と共に己の魂を製鉄材料として奉じた証跡になる。

 

葦名の底へ行きたくば

身投げをするのが良いじゃろう

 

補強となるのは葦名各地に残る断崖信仰、投身で自決した事実の伝承である。

 

巨大な天然製鉄炉とされた葦名の底、

そこで燃料となったのは、絶望した人間たちの身体であり、魂であり、怨嗟であった。

裏付けるように、炉に飛び込むのに適した地形が「獅子猿のねぐら」内には確認される。

 

 

彼ら虐げられた民族は変若水への同化を諦め、復讐と狂気の鬼となり煮える赤鉄に己が身を沈めたのだ。

 

身を投げねば、辿り着けようもなし

 

地獄からの救済を担うといわれる、地蔵菩薩たちの見守る前で、葦名衆は怨嗟に燃えた。

 

一面の、葦名を焼き尽くすような、炎

何を供えようとも、それしか見えん

 

そうして大量の魂が苦痛の記憶と共に溶け込んだ溶鉄結晶は、偽りといえども竜の涙結晶に匹敵する異能を得たのだろう。

 

 

おそらくはそのために、聖地「身投げ場」の分祀は明々と炎光で照らすのが正式なのである。

 

 

 

怨嗟の鉄器

 

通常の製鉄と同様であれば、最初に排出されるのは質の良くない屑廃鉄である。

地に掘られた溝に沿って赤熱の鉄は無数の線となって進み、棒状から冷え、くねり、やがて多数の黒色の蛇状の鉄棒となる。

 

屑鉄でありながら怨嗟を含んだそれらが、人体を取り込み操る仮定に沿うならば、多数の黒蛇鉄の脚を与えられた者たちは、おそらく百足衆の原型となる。

彼らは正気を失い、鬼と化した。

 

次に玉鋼が排出される。原始的手法でありながら鍛造に耐える純度を持っているそれは、量は少ないが武器としての利用に耐えるものとなったことだろう。

 

そして怨嗟の呪炎を纏う数々の忍び鉄器が産まれる。劇中で自然発火する鉄は以下。

 

老一心の佩刀。

黒の不死斬り。

火吹き筒。

忍び斧。

 

火は帯びないが、あやかしを払ったという古刀の錆び丸も葦名の民の作と明言がある。

(ただし鉄に青錆はつかないので、怨嗟の鉄とはカテゴリが少々異なるのだろう。)

なお火槍は製法から見ておそらく火吹き筒のエンチャントと思われるので今は除外する。

 

そうして黒き刃、金棒持つ鬼となった彼らの悲願の国盗りは成り、葦名衆は落ち谷の主となった。

田村侵攻の遥か前、第一次の国盗りである。

 

屑鉄の毒性が葦名の底に溜まりはじめた頃、鉄器の技術、そして黒松の火術の血筋はやがて、鉄砲衆として落ち着くこととなる。

(とはいえ御子はなく、変若の祀りは大蛇への輿入れに頼るしかなかったようだが。)

 

瑠璃の浄化は、神宿り

凝った怨念は、その火に焼かれよう

 

そして流れ流れて忍び義手に仕込まれた古の怨嗟の鉄器は、やがて瑠璃の恩寵に浄化を受けることになるのである。

 

 

楔丸はしかし、自然発火や浄化の対象とは無縁であった。理由は以下と予想される。

 

複雑形状で鍛鉄の技巧が高まっている寄鷹忍びの鉄器と同様、怨嗟忍びの兵器としての有効さが認められた古代葦名の後の時代に、

 

他勢力にその特殊な精魂製法を真似られた、怨嗟の炎とは無縁の新世代鉄器だということである。

 

 

草火丸

 

人の魂が物質に宿るには鉄に直接溶けるほか、葦名では他に二つの道がある。

ひとつは竜胤に吸収され、その涙または赤子から取り出せる「桜雫」となること、

もうひとつの可能性は運にもよるが「お宿り石」の形成と摘出である。

 

源の水を長く飲んでいた者は、

身体の内に石が宿ることがある

 

これらを鍛冶材質とすることでも、おそらくは人は鉄に宿ることができたのではないか。

 

竜胤を武器に変えるのはまず材料が希少すぎるのであまりメジャーとは考えにくいが、

もし神や仙に匹敵する大量の魂を持つ石を用いたのならば、それは不死を斬るような神刀になり得るかもしれない。

お宿り石はそれに比べれば一人分の魂で、異能には欠けるが入手はまだ容易といえる。

 

この製法に着目したのは、おそらくまずは仙峯寺である。

お宿り石摘出が可能な腑分け場があること、(百足衆に比べ)新世代高性能忍び衆と思われる寄鷹との繋がりが槍術師(ゲルググ)などから察せられるためである。

敷地内のどこかに、たたら場と鍛治場を持っていると予想される。

 

ただし仙峯寺は各種技術研究力は異様に高いがオーナーがかなり変遷している認識であるので、どの時代に忍びを作成して用いたかは改めて整理が必要かもしれない。

 

そして忍びに着目したのはもう一勢力ある。

 

久しいな、御子の忍び

 

「御子」である。

竜胤の御子か、変若の御子か、別の御子か。これだけでは誰を指すかは判然としない。

 

かつて人であったが途中で刀になったということは、現在は不在で、その存在は明らかだが人としての死は確認できない者となる。

 

御子と呼ばれる人物そのものが刃になった可能性も、充分にある。

目的のためやむを得ず刃になったのならば、その御子に付き従うものは、斬るべきを斬った後には何を思うか。

 

人に返して差し上げたい

その小さな背中が、巴にとっては全てだった

 

楔丸に封じられた人格は、

一心様の御子、丈のものではないだろうか。

 

生死不明の御子など他にはいない。

一心の国盗りには重要人物ながら参加の姿は見えず、その後の酒宴祝勝会の各人の記憶にも姿は見えない。

かつて確実に存在し、エマたちと共に桜の下で笛を吹いていたにもかかわらず。

 

丈様が刀で腕を斬っておられた

 

ここで「丈様が刀」に着目したい。

古文における属格助詞は、「我らが殿」「我らの殿」のように「が」は「の」に置き換えられる。

つまり「丈様が刀」は「丈の刀」と読める。

 

丈の所有物の刀とも読めるが、かつて丈様であった刀、という読み取りが正しかったのではないだろうか。

斬っていたのは実は巴の腕、という以前の考察にも符合する。

(巴様が)「丈様が刀」で(自分の)腕を斬っておられた、のである。

 

そして幼い隻狼が拾うまで戦場に無造作に落ちていたのは、巴が片腕を失ったと見た戦況考察と合致する。

巴は丈が刀、楔丸を振るっていたのである。

 

 

梟が野良犬と呼んだのは、正式な忍びである自分と比較して、新造のはぐれ忍びに過ぎない丈を揶揄していたのかもしれない。

一心配下では新入りであった梟はそもそも楔丸回収任務に遣わされていた可能性もある。

 

丈が一心の御子で、御子の忍びが丈の魂ならば、弦一郎にとって母の姉の夫、叔父であると同時に異父兄でもある。

彼がライバル視していたのは「狼」ではなく「御子の忍び」丈であったのならば、延々と隻狼をそう呼び続けるのも納得がゆく。

 

丈様の咳は、ひどくなられるばかり

 

おそらく竜咳の原因は楔丸の影響力なのだろう。

 

人返りには、常桜の花と不死斬りが要る

なれど、花はあれども不死斬りはない

 

人返りとは、刀の魂を変若の御子が吸収し産み直す手法を指すのかもしれない。

その場合、すでに胎内にある竜胤は一旦排出しなければならず(混ざるため)、そのためには不死斬りを用いた涙結晶(桜花雫)の摘出が必要となる。

 

竜胤の血を受けた不死は、その主を縛る

 

「竜胤の血を受けた」は概念である混合魂に赤子の血肉を受胎、即ち懐妊させた、

相手である「不死」は今は刀となった丈、

その子を胎内に抱える「主」は当人、巴。

 

彼らは親子の情から竜胤を断てず、結果的にそれはおそらく九郎の誕生に繋がる。違うと思っていたがやはり九郎は、最も正しい意味での竜胤の御子であったのかもしれない。

 

斬り続けた者は、やがて、修羅となる

 

また魂の過度な吸収は、忍具の自我であっても負担に耐えられないものとみられる。

真言曼荼羅と同様、胎蔵界と金剛界は本質的には同等のルールであることが伺える。

 

 

楔丸の名には、願いが込められている

 

以上の考察が正ならば、葦名は歴史の裏面から独自の「忍び」たちの世界が生まれ、公然の武力として発展していた。

 

木と水の胎蔵の異能である変若に対する、

火と金の金剛の異能である忍び。

 

そこで用いられた「忍」は心ある刃であり、

「楔」は木の主の刀、丈であったのである。

 

 

ここまでの考察を前提として、葦名と人物たちを改めて考え見直す土台としたい。

 

 


 

鬼と天狗(山伏)は山岳系の被差別民族、製鉄者では、という予断をもってあたりました。

個人的には納得の整理。

考え始めたときには丈様のことは考慮の外だったのですが、こうなるから隻狼考察は面白いですね。

思えば胎蔵界は巴に、金剛界は丈にそれぞれ集約されていたというのも収まりが良いようです。

 

次回はようやく「隻狼」という人物について。

 

 

吉備津彦命 - wikipedia・・・日本一有名といえる桃太郎の鬼とされたのは、製鉄を生業とした被差別民族「温羅」といわれる。

 

 

関連記事:

【隻狼】新 隻狼考察⑯_平田の狼(胎蔵界)

【隻狼】新 隻狼考察⑰_平田の狼(金剛界)

【隻狼】新 隻狼考察⑱_平田の真神(仮)

 





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