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気ままな感想・考察ノート。基本的にネタバレです。
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今回は形代で読み解く葦名の呪いと、前回触れられなかった仙峯寺の特定エリアについて。

 

 


 

心残りの幻

 

まず以前の考察で、源の宮における伝統である変若水を用いた蘇生法「水生」の仕込みは、

白の不死斬りである「奉魂」を用いて身体の一部を切り出し水に溶かすのだろうと予想した。

 

白い刃で削り出した己の形代を、

源の水に流し、竜に奉る儀式だ

瘤取りが済めば、水に流すが習わしだ

水生の神主は、これを割り拝み

魂鎮めを役目としていた

 

習俗行為テキストを並べたこの一連の動作は、魂が宿ると言われる瘤状の割れるものを身体から短刀をもってえぐり出し、拝むように割って水面に沈め落とす儀式を示している。

隻狼の世界では特に魂との結び付きが強いだろう、と様々な要因から想定されるその部位は、

おそらく瞳、眼球であると予想している。

 

 

 

仙峯寺の御初代の像は「竜胤の雫」が供えられており、何かを両手に挟み雫を割り落とした瞬間を捉えたものに見える。

また弦一郎が飲んだという「変若の澱」も、失われている一心の片目が溶けたものだったのだろう。(正しく水+殿=澱であったのだ)

 

 

水生は水に眼を溶かした時点の姿で、死後にその水場に魂と記憶を保持した何か、が還り復活するセーブポイント的な儀式なのである。

先述のとおり死んでも死なない蟲憑きが用いれば、自己のコピーを量産することが可能となる。

 

(余談になるが不死斬り、儀式の知識、変若の水が揃っていた一心の戦場(片目を負傷)がどこかについては

巴と共闘した捨て牢解放時の開門・獅子猿戦が候補に上がるように思われる。)

 

 

竜咳患者の血から

エマが精製した血石が納められている

 

この「血石」なるものは患者への道標であるという。

即ちその道標は「血」から生まれた、患者に属する何かが元の身体へ還ろうとする、という読み解きが自然ではないかと思われる。

 

水生の力と血石の力、一見無関係なように見えるこれら不可思議現象には共通点がある。

 

それは何かの理に従うように留まりあるいは移動する、ヒト由来の生命力を媒介する存在を示していることであり、

隻狼世界で「形代」と呼ばれる概念の気配があるように思われる。

 

形代は、心残りの幻である

 

テキストによっては「業」あるいは「怨嗟」と呼ばれるこれは、死者あるいは生者の記憶や意識を持った魂の欠片と呼んで良いものであると考察してきた。

「戦いの記憶」もおそらくは形代経由であるのだろう。また犬も形代を遺すことから生命全般が持つものと予想される。

 

魂であれば、ある生物の死を持って発生するかのようであるが、葦名各地の浮遊形代や先の血石のテキストから予想される内容としては、

対象者の血液から発生し、対象者が生きていれば再び対象者に移動して吸収され戻り、

絶命した場合のみその場に留まるというのが基本的な法則ではないかと思われる。

 

そしてもうひとつ、水生の儀式は形代が「変若水に吸収される」性質があることも示している。

 

さらに、以前の考察から、濃い変若水を多く飲んだ者は水に溶けた魂(桜と竜)の影響を受けて白く大きく身体が変質すると予想した。

 

ではもし、薄い変若水を知らずに常飲するなどにより形代が寄ってきて溶け込む体質となったものがいると仮定して、

かつ彼らが忍や侍のような生命のやり取りを行う仕事であった場合、彼らはどうなるか。

 

ゆえに業深いものには、形代が多く憑く

殺めたものの業を引き受ける

それもまた、忍びである

 

望むか望まざるかによらず、彼らは殺した相手の魂(血の意志)を吸収し混ざり合ってしまうだろう。

それはやがて精神の変調や身体にまでも変質をもたらす。それが重なってゆけば、徐々に人間性ともいえる精神バランスを単純生物と対方向の複雑化・超越的方向に失い、逆に獣のようになってゆく。

 

そして獣を狩る者はまた獣になる、それこそが葦名の怨嗟や異形の「血の呪い」の正体ではないだろうか。

 

なぜなら葦名の民は竜咳対策に、ほぼ漏れなく変若の恵みを体内に取り込んでしまっているのである。

遠距離狙撃でも用いない限り、命を奪う行為は呪いを受けることに直接に繋がるのだ。

 

呪いとはまじない、魂を混ぜ綯うことを指すのかもしれない。

 

 

白と黒と形代

 

黒白のミブ風船を割り拝み、その水を浴びたものは、一時的に形代の入手確率が上昇する

 

白桜の樹液である変若水のほか、黒松の樹液にも形代を惹く力があるように思われる。

しかしそれは吸収して同化するような生易しい力ではない。

 

奴らは何より、火を恐れるのだ

だが、いつしか水生の者は火を忌み始めた

 

黒の樹液は松脂である以上、形代を引きつけ吸収した後、焼いて消滅させることが出来ると予想される。

魂の混濁を呪いと呼ぶならば、その浄化に使える火とも言える性質を持つのである。

 

だから本物の京の水は変若水リセットとして輿入れオカミに飲ませていたのであり、

霧の森でも徳次郎と僧侶はバリアのごとく焚き火に当たっていたのであり、

そもそも村に異変が起きた際にも犬彦はくすぶり松脂に火をつけたのであり、

 

火薬の強化と、呪物としての強化、いずれにも用いられる

 

そして黒の燃焼剤は呪いに関係ある物としての効果を持つと言われるのである。

 

 

従って黒の体質を先天的に持つものは、他の生命を害することで獣になることがない(混ざる前に焼ける)はずで、狩人には向いた性質と言えるだろう。

実際、犬彦や徳次郎の生業は猟師なのである。

 

儂はもう少しここで、涼んでゆく

極め、殺しすぎた。怨嗟の炎が漏れ出すほどに

 

ただし吸収形代量が許容量を越えると火力が上がるのか、黒の一族は身体が過熱し始める模様である。

もし焼き切れないほどの形代が殺到すると、燃えながらも獣になってしまうのかも知れない。

 

きっと、鬼が生まれっちまうよ

 

また黒の一族ではない、黒の松脂粉を薬として飲む者も魂の吸着効果で呪いが軽減される可能性がある。京の水効果である。

 

しかし常飲すると代償として自ら本来の形代までが減るためか痩せ細り、血流に行き渡るためか肌色も黒くなってしまうのかもしれない。これは百足衆やらっぱ衆の外見からの予想である。

 

なお変若水も同様、常飲による体質変化者先天的に樹液が同化している一族(白の場合「変若の御子」と呼ばれる)の血では、形代に対する効果が異なる可能性が予想される。

 

おそらく前者はただ呪われる体質となる(なぜか竜咳には薬となる)が、後者は魂に肉を与える変若水のごとく「形代に肉体を与え、産める」のではないだろうか。八尾比丘尼は竜の涙から巴を産んだし、弦一郎も強引ながら変若の澱から産んで見せたのである。

(条件としていずれの涙も不死斬りで抉った瞳である必要があると予想される。拝涙は不死斬りでのみ叶うため。)

 

作左様が、代わりにあの子を寄越してくれた

 

ここでは御子である息子の血に吸収された上で死を得たという可能性がありそうである。

 

そして葦名には白黒の他にもう一色、形代の吸収を行う体質の一族がいるように見える。

 

 

 

右回りの渦風

 

先に仙峯寺の考察を行った際、ほぼノータッチになってしまった事象がある。

それは大量の地蔵と風車の存在である。 

 

それは道教の観点からも仏教の観点からも異質であったということであり、

つまりそこには第三の宗教があった可能性を否定できないが、答えは実は明確である。

地蔵と風車が飾ってある場所は金剛山「修験道」、日本古来の山岳信仰を指す名称だからである。

 

地蔵と風車は恐山を彷彿とさせる点からも、それらは修験道オブジェクトであり、最も古い葦名の民間信仰であったという解釈に無理はないように思われる。

 

そして修験道があったということになれば、別のある人物とも金剛山は結びつく。

葦名の天狗である。

 

天狗という妖怪は行者、すなわち修験道と関わりが非常に深い。

また風車とは、渦風の発生装置である。

 

そして隻狼における天狗の面、神隠しをもたらす大うちわ、更に地蔵や風車にはある共通点がある。

 

「赤」色である。

 

白黒のほか赤の不死斬りが存在する以上、

赤の神木、赤の樹液、そして赤の一族が葦名に存在しているという結論は当然の帰結のようにさえ思われる。

 

まず赤の神木とは何か。修験道付近にある赤い木といえば、疑う余地はない。

紅葉、すなわちと見て良いはずである。崖上、地蔵と風車で祀られた一本が始祖で残りは子孫だろうか。

季節感のない紅葉は、常桜同様、常紅葉とでも言うべき不死の一種だったと考えて良さそうである。

 

 

 

そうなるとその樹液はカエデの甘蜜である。

形代を引き寄せ閉じ込めた上で、飲料や燃料にはならないが食料になるという稀有な性質が予想される。

 

仙峯寺が作る「阿攻」の加護を受ける飴

この赤く丸い塊は、常しえに朽ちぬ

 

それは霊的なモノを閉じ込める飴や玉の恰好の素材になり得るといえるだろう。

 

赤い布に包まれた小さな童地蔵

誰かを偲ぶときは、赤白の風車を供える

赤く色づく八つ手の葉で作られた大うちわ

 

また地蔵や風車、更には天狗の面や団扇を見るに染料としての用途もありそうである。

(ヤツデは元々、紅葉する植物ではない)

 

形代への引力を持った染料は、本人が形代を引き寄せることで発生する「呪い」をある程度カバーしてくれる効果があるのかも知れない。

もし赤の不死斬りが生者から形代を引き抜いているとすると、それは凄まじいまでの引力である。

 

 

また形代の結晶化は不活性化(混ざらない・焼けないようになる)という意味で呪いや怨嗟への薬になる可能性もあり、

 

竜咳患者の血から

エマが精製した血石が納められている

 

変若の米のように、血(=形代発生源)を閉じ込める結晶の石を自己精製できるであろう赤の一族は、

特に呪いや怨嗟の炎といった形代由来の病の進行を抑える特殊な薬師となれる可能性がある、とも言えるだろう。

 

加えて、人や獣を害しても相手の形代を結晶化する(個別の記憶として保持管理する)ことで呪いを受けないのであれば、優秀な忍びともなり得る。

 

それを示すように、SEKIROのタイトル画像には、紅葉と共に赤い衣服の忍びの姿が明確に提示されているのである。

 

やはりお主には、人斬りの才がある

 

 

 

 

最後に、これら三属性の考察をまとめる。

 

 

白の血族

・桜を神木とする

・樹液の力は魂の吸収と混合

・不死斬りの力は奉魂による水生復活

・一族は白米を精製可能 形代を転生できる

 

黒の血族

・松を神木とする

・樹液の力は魂の吸収と焼却

・不死斬りの力は開門による形代復活

・一族は油を精製可能?形代を焼却できる

 

赤の血族

・楓(紅葉)を神木とする

・樹液の力は魂の吸収と結晶化

・不死斬りの力は拝涙による形代強制排出?

・一族は飴を精製可能?形代を捕獲できる

 

 

 

こう考えると炎上の黒と捕獲の赤は確かに不死者相手でもその形代を損なえる「不死斬り」であり、白は宝剣であるが不死は斬れないのかもしれない。

 

また偶然か必然か、それぞれが「春」「夏」「秋」の風景に合うようである。

そうなると夏場であったとみられる平田屋敷の炎上火力にも、何かの繋がりがあるのだろうか。平田の黒松探しは考察上、何かの啓蒙が得られそうである。

 

 

 

白桜、黒松、そして紅葉の樹液。

大樹の血液と言えるそれらと、

血液の意志と呼べる形代、

様々な血と業を持つ狩人と獣たち。

 

それらの血から産まれた複雑な模様が、密かに葦名を彩っていたのではないだろうか。

 


 

 

今回は狩人、血、獣、呪という語を用いて、葦名の環境について思う所をまとめてみました。

かねて血を恐れ給え、ですね。

 

 

次回は今回の補足と補強、特に白黒赤を統括したサラブレッドであり

茶屋経営には前人未到の適性を示すであろうあのお方について。の予定。

 

関連記事:

【隻狼】新 隻狼考察⑭_仙峯寺の過去

【隻狼】新 隻狼考察⑮_血から生まれるもの

【隻狼】新 隻狼考察⑯_平田の狼(胎蔵界)

(番外編)【Bloodborne】隻狼考察からのブラボ考察

(番外編2)【Bloodborne】ブラボ考察からの隻狼考察

 





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