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竜胤に直接関わらないことから、今まで触れる機会のなかった仏師の過去に迫ります。
結果、思っていたよりも遥かに想定外の方向に転がっていきました。
義父の変節
ぬしの主は、生きておるぞ
初手からお見通し感が強い仏師殿であるが、すべてのエンディングを迎えてもなお謎の人物のままである。
腕を失った儂に、道玄が作ってくれた
今はお前さんの左腕にある、そいつをな
その過去については、忍び義手の初代の使い手であった忍び、エマを拾った者であったこと、以外は情報がないかに思える。
しかし仏師が気前よく渡してくれる貴重品に着目すると、ある共通点が浮かび上がる。
これは、葦名に仕える忍び
寄鷹衆の技である
迫り、襲い、飛び去る
寄鷹の名を冠する戦いとは、そうしたものだ
仏師からの伝授であるはずの忍び義手技には、数ある忍者衆のうちなぜか寄鷹の技のみが、それも複数収録されている。
侍には真似できぬ
地に足を付けぬ戦いの技
地に足つけぬ忍びの戦い
そのための体術だ
同じく仏師殿がくれる忍び技の伝書においても妙に空中戦推しである。
もしもらっぱ衆や孤影衆の忍び伝書があるならば、そこまで空中重視ではないはずだろうと思われるところに
さらにこの書には、寄鷹の頭と予想される梟の大技である大忍び刺しまでが収録されているのである。
これらの情報から推測すると、この伝書は寄鷹衆のための教科書ではないのだろうか。
そしてそれを手渡してくれる仏師は、高い実力の寄鷹衆だったのではないか?
という想像が導かれる。
我が梟、見せてやろう
ここで葦名城天守上階で対戦する梟について改めて考えてみると、
天守梟は大忍び落としのほか、平田屋敷の過去梟が使っていた大技のほとんどを使ってこない。
代わりに増えたのは毒などの寄鷹衆らしからぬ技である。
黙って義父は、おはぎをくれた
父の言葉に従い、御子を捨てよ
加えて、子供隻狼を拾って育てる、おはぎを与える、などの人情味溢れる過去とは似つかわしくない非情と欲望の人物へと人格も変貌している。
共に来るか、飢えた狼よ
野良犬に喰わせることもあるまい
素っ気なさの裏に人情を備え、寄鷹の技を基礎から伝授してくれるなどの点、発言の数々を並べると
現在の梟よりも仏師殿のほうが、狼を拾った過去の梟の印象に似ているとさえ感じられる。
心まで無くしたか
ま、まってくれぇい
そして過去梟と天守梟の変貌ぶりも、いっそ途中から中身が別人になったと割り切って考えると辻褄が合う。
大技を忘れたのではなく、ニセ梟では真似できなかったのではないかということになる。
両者の観察から導き出される仮説は、
いまの仏師の中に過去の梟の人格があり、
いまの梟の身体の中には邪な人格がいる、
つまり梟の身体と精神は離別している可能性である。
捨て牢の御霊降ろしで寺の小太郎と獅子猿の人格が入れ替えられているのではないか、という考察の延長線上にあたる。
また他の人格移動の可能性として、明らかな二重人格である捨て牢の道順も存在する。
御霊降ろしは、人の身に余る御業
つまり仏師と梟は、どこかのタイミングで御霊降ろしを施術され
互いに身体と魂が入れ替わっている過去梟とニセ梟ではないか、
という仮定が成立しうる呪術の土壌が隻狼の世界にはある。
直接の関係は明らかではないが、仏師殿の顔の古傷は梟と同じ左頬にあるようだし(額の傷は一般的に浅いので消えやすい)、
そもそもムービーに一瞬登場する過去梟の顔は、仏師殿と明らかに似すぎているように思われる。
あれは、外道…ド外道だぜ、正就さんよう
ちなみに平田屋敷の梟は複合的な梟のイメージである。後の平田屋敷の再考察で触れるが一応整理だけすると
OP梟:義父人格、梟技
平田梟:外道人格、梟技
天守梟︰外道人格、外道技
となる。
常識外れな仮定ではあるが、この前提に立つと見えてくる奇妙な符合は他にもある。
義父と酒宴
心まで無くしたか
戦場跡に、一人
私は、呆然と立っていました
エマと狼は共に戦場で拾われた孤児であったという共通点がある。
エマは仏師、狼は梟にそれぞれ拾われたと考えられるが、先の仮定の通り過去梟がいまの仏師(の人格)になったとしたならば
共通点どころか二人ともが過去に梟に拾われた子供であるということになる。
「親は絶対」の規範を敷く以上、これまで拾った子は複数いるのだろうと以前に考察したが
それならば同じ戦場で梟が複数の子供を同時に拾ったとしても不自然ではない。
あの戦場で拾われた子よな
人の縁とはつくづく面白い
偶然にもエマと隻狼が同じ目的で動くことになった点を、一心は奇特に思ったのかもしれない。
なお二人が拾われたその戦は、オープニングムービーによると田村主膳との国盗り戦だった。
じーっと、ずーっと、握り飯を睨んできてな
面倒だから、くれてやった
腹を空かせた狼に、
黙って義父は、おはぎをくれた
あのおはぎは、とてもうまかった
そうしたら、今度は猿が、握り飯をくれたのです
とても、うまかった…
余談となるが、おはぎは握り飯の一種であると考えて良いならば、これらはすべて同一のシーンである可能性が出てくる。
そしてもしそうならば、エマもまた狼と呼ばれる存在であったという考察上で重要な可能性を含んでいる一文である。
その眼…
さしずめ、任に敗れた狼…といったところか
そう考えると仏師のこの台詞は「狼」を「任務を持ち、主を持つ特定の職」として見ていたようでもある。
「平田」を護る「狼」についても、今後の平田屋敷考察にて詳しく考えてみたい。
共に葦名に厄介になることになった
道玄の養女になったのも、その時よ
仏師の人格=過去梟説を続けると、葦名に梟が加わったのがエマを拾ったタイミングと同時であっても話は矛盾しない。
逆に考えると戦場跡にいた梟は、まだ葦名の者ではなかった。
偶然通り掛かったのでなければ答えは限られる。
梟は戦の敵方、田村の手の者だったのである。
一心の勝利により、おそらくは配下の寄鷹ごと一心に召し抱えられた外様だったのではないだろうか。
そしてそれは梟が葦名の厄介になる=主を変えたその瞬間、すなわち田村と一心の決着の直後であったとも予想される。
そこに梟がエマに渡したうまいおはぎが出てくるのである。
勝ち戦のときは、こうして飲んだものよ
葦名衆の、みなでな
流れから予想すると、エマと義父の出会いとは国盗りの戦勝を祝う戦場での祝勝会の一端だったのではないだろうか。
そこには梟と、同じように葦名の外様配下となった道玄、その場で拾った隻狼とエマ、当然に一心とその配下たちもいた。
お主の養父もまた、馬鹿者であったわ
そしてその戦場での宴は、同時に一心にとっても鮮烈な思い出であったはずである。
一心にとって葦名のトップになった瞬間であり、宴の肴はうまいおはぎと竜泉を揃えた葦名高級セットであったのだ(おそらく当時の変若の御子の米なのだろう)。
一心は、「見事な折れぶりよ」と褒め称え、
敵将・田村主膳の十文字槍を下賜したという
酒飲みながら、十文字槍を手放さぬ馬鹿者に
若い鬼刑部が、田村から奪って与えられた槍を持ったままであったという逸話も、
この考察が正ならばこの宴はそれを賜った本当に直後であるために、無理もない格好であったといえるのである。
つまり一心と仏師は、同じ酒宴のことを語っていたのである。
二人の語る内容から想像される、この祝勝会の様子をまとめると以下のようになる。
戦には負けたが、命は助けられた。
それどころか、己の配下になれという。
田村と一心、決着のついた戦場の端。
祝勝の振る舞い酒と握り飯を持たされ
葦名一心の厄介になるか考えていたところ、
梟は握り飯の端を地に落とした。
猿たちがそれを奪って食べ始める。
道策の地下牢に囚われていた猿たちだろう。
眺めていると、一人の小娘も同じようにそれを眺めているのに気付いた。
手に残っていた握り飯を娘にくれてやり、
一心の所へ戻ろうとすると、
小娘はなにやらついてきた。
仲間に囲まれ上機嫌の一心はついてきた娘に言った。
でかい図体で酒朱に染まるは梟にあらず、猩々よ。
お前は猿に拾われたのだぞ。
心まで無くしたかに見えた娘の顔に、
微かに笑みがこぼれたように見えた。
拾ったからには育てよ、猩々。
娘では忍びに育ちませぬ。
梟はそういうと小娘を同じ葦名の新顔である道玄に押しつけ、
新たな寄鷹の雛を探すため、戦場跡へと再び足を向けた。
梟はこの直後にもう一人、狼を拾う。
正体の露見を嫌ってか、仏師が「なんだかんだ」で誤魔化した部分となる。
唐突な猿は獅子猿同様、田村側の御霊降ろしの実験体が解放されたものとここでは予想したが
なぜか近くにいた「ぼんやりとした様子の二人の孤児」も、猿と同様の立場だった可能性は充分にあるように思われる。
その点は焦点を隻狼に絞った際にでも改めて考察したい。
よく、道玄と、飲み交わしたもんだ
エマに、酌をしてもらってな
道玄と仏師(梟)の縁は、同じ時期に葦名についた立場が結び付けたものかもしれない。
寺の忍び凧は、寄鷹の技術と絡繰り技術のコラボレーションにも思われる。
師の…道玄様の、お役に立ちたかった
我が師、道玄の悔い
わずかでも晴らせたのなら良いのですが
エマは道玄を父と呼ぶことはない。
もしおはぎを貰った狼がエマならば、義父は拾ってくれた猩々のほう、と心の中では考えているようでもある。
梟の正体
仏師の身体には梟がいる。
では梟の身体の中にいるのは何者であるのか。
これまでの考察を踏まえるならば、それは落ち谷の飛び猿という答えが導かれるように思われる。
落ち谷の飛び猿と呼ばれた忍びが、 かつて愛用した忍具
まず交換したのであれば仏師の身体の本当の持ち主ということになるが、飛び猿は以前考察した通りならばらっぱ衆である。
単身矮躯といえる見た目の特徴は近いといえるだろう。
また天守梟の落下斬撃、すれ違いの斬撃、遠めからの手裏剣、そして毒撒きはすべてムジナなどらっぱ衆の技に酷似している。
加えて、前回考察の通りであるならば、巴の帰郷に乱入した飛び猿は「源の香を作る」「水生村が死なずとなる」を目撃だけしたことになる。
その不完全な情報は「源の香というものを作れば、死なずが出来上がる」=誤解から死なずの探究者となった後日の梟の動機の予想と保持内容が完全に一致する。
他にこのような半端な情報を持ちうる人物は、巴サイドにもその外側にも存在しない。
だが飛び猿は、左の腕と共にこれを失った
飛び猿は水生村にて、一心の暗殺に失敗している。そこで敗北し、何らかの傷を負ったとしてもおかしくはない。
腕を失った儂に、道玄が作ってくれた
つまり梟は飛び猿と御霊を交換させられた際、左腕のない身体を与えられるという特殊なルートで「失った」ことになる。
ああ、この酒を好きな御方に…
くく… 切り落とされたのじゃ
しかしそれだと一心に切り落とされたという証言と辻褄が合わないかに見えるが、そうではない可能性がひとつある。
儂の十文字は、修羅の腕をも斬り落とす
剣聖・葦名一心は、そう嘯いた
一心は仏師が忍び義手を装着後、その暴走に引きずられ「修羅」となりかけた際に、忍び義手だけを仏師から切り離したのではないだろうか。
呪物にまつわる強化義手忍具を作成する筒薬
忍び義手は明らかに呪具である。
道玄が作った、形代=魂の欠片を燃料とするその絡操りがもたらした災厄については、今後の考察で明らかにしていきたい。
そこにはおそらく、「鬼」の姿がそろそろ現れてくることだろう。
水生村から平田屋敷まで、の時期を解くキーワードは「黒の不死斬り」「御霊降ろし」がもたらす「狂気」のような気がしています。
つまりダークとソウルと人間性の喪失ですね。(そっちは未プレイなので中身はよくわかってないです)
参考:
猩々 - wikipedia …酒で赤くなる、猿のほか鳥の属性も持つ妖怪であるとのこと
関連記事:
【隻狼】新隻狼考察⑧_酒と猩々

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